こんにちは。
ASD/ADHD当事者の「ひまわり」です。
今回は、「ひまわり」がどのようにして発達障害の診断に至ったかを記事にします。
暗い話もありますので、そういう話が苦手な方は、トップページに戻って下さい(笑)
長いから、暇なときに読んでね!
現在の「ひまわり」
「ひまわり」は休職中を経て退職した、特別支援学校の元教諭です。
特別支援の教員免許は一種、基礎免許は中・高(教科はナイショ)です。
そして、同時に、ASD/ADHD当事者でもあります。
特別支援教育には、もちろん、発達障害のある子どもの教育も含まれています。
ですから、発達障害に関しても、ある意味では専門家であったといえると思います。
けれど、実際には、自分の診断に至るまでには、時間がかかってしまいました。
それでは、一体なぜ、そんなに時間がかかったのでしょう。
本当は、前から「発達障害」に気づいていた
「ひまわり」は特別支援学校の教諭になってから、診断を受けました。
それも、何年も働いてから、です。
では、病院に行ってから、自分の障害に気づいたのでしょうか。
答えはノーです。
特別支援教育について学ぶ
「ひまわり」は、特別支援教育が専門です。
とはいっても、大学時代は別の教科を学んでいました。
特別支援の免許を取ったのは、社会に出た後。
社会経験を積んだ後、特別支援教育を学びたくなり、大学の専攻科(1年)に通い直したのです。
専攻科では、特別支援教育を学びます。
そして、特別支援教育では、当然ながら、発達障害についても詳しく学ばなければなりません。
勉強しているうち、当たり前ですが、教科書の「発達障害」が自分に当てはまることもわかってしまいます。
決め手は、研究協力で、他大学で受けた、WAIS-Ⅲの結果でした。
気軽な気持ちで受けた検査でしたが、結果は見事にガタガタ。
ウェクスラー式の検査についても学んでいましたから、それは現実を突きつけられる結果でした。
やっぱり、私は、発達障害なんだ・・・・・・
それでも、「ひまわり」は診断を受けることはしませんでした。
根拠なく、「自分は大丈夫」だと思う
下手に「発達障害」を知っていたから、「ひまわり」はこう考えます。
困ってなければ、「発達障害」じゃないもん
そう。
「発達障害」と診断されるには、本人や周りの人が困っていることが必要だと、「ひまわり」は知っていました。
困っていなければ、発達特性はあっても、「発達障害」とは診断されないのだ、と。
だから、必死に、「自分は困っていない」と、自分に言い聞かせていました。
本当は、困っていたのかもしれません。
そして、当時の周りの人も、困らせていたかもしれません。
けれど、「発達障害」でありたくない「ひまわり」は、そうした事に目を向けることはありませんでした。
だって、私、出来るもん
採用試験に合格した事も、根拠のない自信に拍車をかける結果になってしまいます。
ほらね、やっぱり私は出来るんだ
専攻科を卒業し、根拠のない自信だけを手がかりに、「ひまわり」の教員人生はスタートしました。
教員になった「ひまわり」
望みが叶って、某自治体の支援学校で働くことになった「ひまわり」。
けれど、その道は、平坦なものではありませんでした。
過集中と過剰適応
根拠のない自信に溢れていた「ひまわり」。
けれど、一方では、「発達障害」の特性があることに、後ろめたい気持ちもありました。
他の人より頑張らなきゃ、駄目だ!!
自分は人より劣っているんじゃないかという不安から、「ひまわり」は必死に仕事に打ち込みました。
空気を読むのが苦手だとわかっていたから、張り詰めた気持ちで、周りの人に合わせ。
人より劣っていると思いたくないから、残業はもちろん、家でも常に教材研究。
土日は、校外活動への引率もしましたし、教科の研究会にも顔を出しました。
なんだか疲れる・・・・・・でも、頑張らなきゃ!
同僚や上司には恵まれ、ヘトヘトになりながらも、「ひまわり」はなんとか教員を続けられました。
でも、今振り返れば、それは、過集中と過剰適応によって、ギリギリ成り立っていたのです。
教員の宿命、転勤
教員は、数年毎に、学校を移動します。
1校目で数年が経ち、「ひまわり」もこの転勤の年を迎える事になります。
某自治体では、何か理由がなければ、その年に、転勤することが決まっていました。
どうせ転勤するなら、別の自治体でもいいんじゃない?
家庭の事情もあったことから、「ひまわり」は別の自治体の採用試験を受験。
無事合格し、自治体を移って、別の支援学校に勤めることになります。
学校で事件が起きた
同じ「支援学校」といっても、自治体が変われば、制度も雰囲気も大きく変わります。
それでも、やっぱり、「ひまわり」はこんな風に考えます。
頑張れば、なんとかなるもん!
自分で言うのはおかしいのですが、今振り返っても、「ひまわり」は努力していたと思います。
毎日、薄氷を踏む思いで過ごしましたが、新しい学校の1年目が過ぎた時には、校長からは「A」の評価も貰えました。
※注 学校では、管理職による教員の評価制度があります。
頑張ったら、なんとかなるんだ!
「ひまわり」は、ますます、馬車馬のように働くようになっていました。
発達特性があるという引け目が、自分を焦らせる原因にもなっていたのだと思います。
そんなとき、学校で、ある「事件」が起こります。
「事件」の内容については、詳しく触れません。
「ひまわり」は、「事件」には一切関与していません。
けれど、学校にマスコミが押しかけ、学校内が大混乱になったのは、鮮明に覚えています。
毎日が混乱の嵐。
過敏な「ひまわり」は、それだけで疲弊していきます。
次々に発生する「休職」、「辞職」
混乱の渦中、最初に倒れたのは管理職でした。
学校の中は益々混乱。
雪崩のように、休職する教員や、辞職する教員が続きました。
どうしよう、恐い・・・・・・
自分では混乱を乗り切ったと思っていたある日、「ひまわり」は自分の異変に気づきます。
真っ直ぐ歩いているはずなのに、壁にぶつかる。
朝、通勤前に、涙が止まらない。
授業準備しなければいけないのに、手が震える。
もう、限界でした。
学校からの帰り道、「ひまわり」は泣きながらメンタルクリニックに駆け込みました。
そうして、ようやく、「ひまわり」は発達障害と、診断される事になったのです。
発達障害の診断、その後
こうして休職に至った「ひまわり」。
幸い(?)WAIS-Ⅲの結果を持って行ったためか、発達障害の診断はすぐにおりました。
けれども、二次障害を発症していたため、治療は長引き、結局は退職に至りました。
数年という長い時間をかけて、拗らせてしまった二次障害は、治るのに時間がかかるようです。
休職中に、ADHDで、精神障害者保健福祉手帳も取得しました。
そして、後に転院した病院で新たな検査も受け、ASDを併発していることもわかりました。
治療中、気づいたことがあります。
自分の障害を受容できていなかった
先に述べたように、「ひまわり」は自分の障害特性に気付いていました。
それなのに、診断も治療も受けていなかったんです。
それは、自分の障害を受容できていない、受容したくない思いがあったからでした。
けれど、二次障害を発症した今、それは間違っていたと思います。
もっと早く診断を受ければ良かった
二次障害になってからでは、時すでに遅し。
発達障害を拗らせたから思う事ですが、、、
私の場合は、もっと早く診断の受けておくべきだったと思います。
もちろん、発達特性のある方が、すべて診断を受けるべきだとは思いません。
発達障害特性があっても、得意な事をいかし、社会で活躍してらっしゃる方もいます。
けれども、あくまで「ひまわり」の場合は、そうしたケースには当てはまりませんでした。
だからこそ、早く診断を受け、二次障害の予防に努めた方が良かったと、今更ながらに思うのです。
今後の目標
まずは、二次障害を治すことが目標です。
といっても、「完治」という言葉よりも、「寛解」という言葉の方がふさわしいかもしれません。
そして、発達障害も、「治る」障害ではありません。
そのため、この障害とうまく付き合っていく事。
障害があっても、出来る事をしていくこと。
「ひまわり」は、そんな事を目指しています。
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